日々の御言葉

聖イエス会福音教会の牧師室から聖書のみ言葉をおおくりします。聖書は主に新改訳2017を使用しています。

日々のみことば 6月23日

日々のみことば 6月23日

〇ダビデの子

○通読箇所 ルカ20章

◇今日の聖句

「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」

◇ひとこと解説

ルカ20章の背景には、エルサレムへ近づくイエスの姿があります。盲人バルテマイは「ダビデの子よ」と叫び、群衆も王を迎えるようにイエスを迎えました。しかしその入城は、勝利の行進であると同時に、都の滅びを思って涙を流される入城でした。人々はダビデの子メシアを待ち望んでいましたが、エルサレムはその王の真実の姿も、その王が開く「平和に向かう道」をも見分けることができなかったのです。

イエスに、祭司長や律法学者たちはイエスに「何の権威によって」と問います。その後の論争を通して、彼ら自身の姿が明らかになります。彼らは神の民を導くはずの指導者でしたが、神から託されたぶどう園を自分のもののように扱い、主人に返そうとしない農夫のようでした。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」との言葉も、単なる税金の教えにとどまりません。神のかたちに造られた人間は、神ご自身に返されるべき存在なのです。

一連の問いに答えた後、今度はイエスが問いかけます。「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか。」イエスは、メシアが単にダビデの子孫として来る地上的な王ではないことを示されました。ダビデ自身が「主」と呼んだお方、神の右の座に着くお方こそ、まことのメシアです。イエスの権威は人から来たものではなく、神ご自身から来るものです。それは神殿・国家・律法・家系、そして死さえも越える権威です。エルサレムで明らかにされたのは、イエスこそ待ち望まれた王であり、しかも初めからおられる主である、という真実でした。

<クイズ>この後に登場するやもめは、献金箱にいくら投げ入れたでしょうか?

1.1デナリ

2.2アサリオン

3.2レプタ

日々のみことば 6月19日

日々のみことば 6月19日

〇最も小さなことに忠実

○通読箇所 ルカ17章

◇今日の聖句

あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。

◇ひとこと解説

15章では、神のあわれみが、過激とも思えるたとえをもって示されました。16章では、そのあわれみを受けた者が、富と隣人をどのように扱うべきかが問われます。16章前半のたとえに登場する「不正な管理人」は、放蕩息子と同じく、託された財産を浪費した者でした。彼はその不正のために職を失おうとしていました。しかし、なお行動できるわずかな猶予が与えられていました。彼は自分の将来のために、さらに疑わしい会計処理を行い、それによって友を得ました。イエスは、その不正なやり方をほめられたのではありません。終わりが近いことを悟り、残された時間と権限を将来のために用いた、その抜け目なさを取り上げられたのです。この世の富という小さなものに対してでさえ、人が将来を見据えて賢く備えるなら、まして神の国を知らされた者は、永遠を見据えて忠実にふるまうべきではないでしょうか。

もし富を委ねられているなら、それを自分の安心や誇りのために抱え込むのではなく、神の国と隣人へのあわれみのために用いるべきです。富は神から一時的に委ねられたものであって、仕える対象ではありません。ところが、金を好むパリサイ人たちはこれを嘲笑いました。彼らにとって富は神の祝福のしるしであり、自分たちの正しさを証明するものだったからです。しかしそれは、神の前には真実ではありませんでした。その後の「金持ちとラザロ」のたとえは、このことを鋭く示します。金持ちは豊かさを与えられながら、門前のラザロを友とせず、隣人へのあわれみのために富を用いませんでした。神に仕えることは、隣人を愛することと切り離せません。私たちは、委ねられたものをもって、神のあわれみを具体的に示すよう招かれているのです。

<クイズ>16:6で債務者が負っていた借り「油百バテ」はどれぐらいの量?

1.40L 

2.400L 

3.4000L

日々のみことば 6月18日

日々のみことば 6月18日

〇見つかったのだから

○通読箇所 ルカ15章

◇今日の聖句

おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。

◇ひとこと解説

ルカ15章は、ルカ福音書に示された神のあわれみを最も鮮やかに示す、いわば心臓部です。この三つのたとえは、取税人や罪人たちがイエスのもとに近寄って来たとき、それを見て文句を言ったパリサイ人や律法学者たちに向けて語られました。ここで「失われたもの」が指しているのは、神から見放されたと思われていた罪人たちです。そして中心にあるのは、そのような人々に対する、神の非常識とも思えるほどのあわれみです。

たとえに出てくるものは、一匹の羊、一枚のドラクマ銀貨、そして息子へと、次第に価値を増していきます。九十九匹を野に残してまで一匹を探す羊飼い、九枚で満足せず、見つかるまで一枚を探す女、自分を裏切った息子を待ち続ける父親。そこには、失われた者をあきらめない神の理不尽とも言える愛が表されています。

最後の放蕩息子のたとえは、その頂点です。不実な息子は、家から捨てられても当然でした。しかし父は、遠くに彼を見つけると、使用人のように取り乱した姿で走り寄り、最高の宴を開きました。

一方、兄息子は怒り、自分の正しさを訴えます。その言葉には父への愛も、弟の回復を喜ぶ心も見られません。けれども父の愛は、弟だけでなくそのような兄にも注がれます。神は、弟のように道を外れた者にも、兄のように自分の正しさに閉じこもる者にも、ご自分と共にいる幸いに気づいてほしいと願っておられるのです。

<クイズ>

ドラクマ銀貨とほぼ同じ価値だったのは、次のうちどれでしょうか?

1.1デナリ

2.1タラント

3.10アサリオン

日々のみことば 6月17日

日々のみことば 6月17日

〇からし種ほどの信仰

○通読箇所 ルカ17章

◇今日の聖句

すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。

◇ひとこと解説

ルカ9章から始まるエルサレムへの道のりは、イエスが弟子たちを教え、訓練する道でもあります。17章では、まず弟子たちの生活について教えられます。人をつまずかせてはならない。罪を犯した兄弟を戒め、悔い改めるなら七度でも、つまり何度でも赦しなさい。この重い命令を前に、弟子たちは「信仰を増し加えてください」と願いました。しかしイエスは、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば」と言われます。弟子たちに信仰がないことを責められたのではありません。信仰は量の問題ではないのです。イエスに従っている時点で、すでに信仰は与えられています。大切なのは、自分が従っているお方、主イエスに結びついて歩むことです。また、弟子は従ったことによってもたらされる成果を誇ることはできません。しもべは「なすべきことをしただけです」と言うべきなのです。

続く十人のツァラアトの人の物語は、これらの信仰についての教えを具体的に示します。彼らはまだ癒やされていないのに、イエスのことばを信じて祭司のもとへ歩き出し、その途中できよめられました。しかし戻って来て神を賛美し、イエスの足もとにひれ伏して感謝したのは、サマリア人一人だけでした。信仰とは、主のことばを信じて出て行くことであり、恵みを受けたなら主のもとに帰り、感謝して礼拝することです。

その後、パリサイ人は「神の国はいつ来るのか」と尋ねます。しかし問題は「いつか」ではなく、目の前のイエスに神の国を見いだす信仰があるかどうかです。神の国は、すでにイエスご自身のうちに来ていました。だから弟子は、時を計算するのではなく、与えられた信仰で赦し、仕え、感謝し、祈りつつ主を待ち望むのです。

<クイズ>

ルカ17:32で、イエスは「裁きの日」にだれのことを思い出しなさいと言われましたか?

1.ノアの妻

2.ロトの妻

3.アブラハムの妻

日々のみことば 6月16日

日々のみことば 6月16日

〇とこしえに覚えておられる

○通読箇所 詩編111-112

◇今日の聖句

主はその奇しいみわざを人の心に刻まれた。主は情け深くあわれみ深い。

◇ひとこと解説

詩篇111篇は、主のみわざを覚え、心を尽くして主をほめたたえる賛美です。詩人は、会衆の中で、主のみわざの大きさ、尊厳と威光を歌います。しかし、そのみわざの中心にあるのは、単なる力強さではなく、「主は情け深く、あわれみ深い」という主のご性質でした。

イスラエルの民は、荒野で「食べ物を与え」られ、契約を与えられ、ゆずりの地を与えられました。民は何度も主の恵みを忘れましたが、それでもなお、主はご自分の契約をとこしえに覚えておられました。ここに大きな慰めがあります。私たちが主を覚えているから救いが保たれるのではありません。主が「ご自分の契約をとこしえに覚え」、「贖いを送り、ご自分の契約をとこしえに定められた」からこそ、私たちはもう一度、主の御名が聖であることを思い起こす者とされるのです。

そして、この主を知る者は、「主を恐れる」歩みへ導かれます。主は情け深く、あわれみ深い。この恵みを覚えるところから、知恵ある歩みが始まります。

<クイズ>今日はお休み

日々のみことば 6月11日

日々のみことば 6月11日

〇何一つ忘れるな

○通読箇所 詩編103〜104

◇今日の聖句

わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

◇ひとこと解説

詩篇103篇は「わがたましいよ 主をほめたたえよ」という呼びかけで始まり、同じ言葉で閉じられる賛歌です。その中心にあるのは、「主が良くしてくださったことを一つも忘れるな」という勧めです。主をほめたたえることの反対は、主の恵みを忘れてしまうことだからです。

そこで詩篇の作者は、まず自分自身に与えられた恵みを数え上げます。主は罪を赦し、病を癒し、いのちを贖い出し、恵みとあわれみの冠を与えてくださるお方です。さらに良いもので満ち足らせ、新しい力を溢れさせてくださいます。3〜5節には、個人が経験した神の恵みが歌われています。

6〜13節では視点が、「私」から「私たち」へと広がります。主はモーセとイスラエルの民にご自分の道を示されました。その道とは、「主はあわれみ深く情け深い。」というご性質です。これは金の子牛の罪の後に、主が御名の宣言と共に明らかにされたご自分の本性でした。

さらに14節以降では、視野は全人類へと広がります。土のちりから造られた弱くはかない存在を主は心に留めてくださいます。主の恵みは「とこしえからとこしえまで」主を恐れる者の上にあります。

19節以降、詩篇は宇宙的な広がりへと達します。主は天に王座を据え、その王国はすべてを治めています。御使いたちも、造られたすべてのものも主をほめたたえます。こうして詩篇は、個人の賛美から始まり、イスラエルの民、人類全体、そして天地万物へと賛美の輪を広げながら、最後にもう一度「わがたましいよ 主をほめたたえよ」と歌うのです。主の恵みを忘れずに思い起こすとき、私たちの賛美もまた、この大きな賛美の輪に加えられるのです。

<クイズ>104編3節で、神の車と例えられているのは?1.炎 2.密雲 3.風

日々のみことば 6月10日

日々のみことば 6月10日

〇終わりまで歩み

○通読箇所 ダニエル11-12章

◇今日の聖句

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。

◇ひとこと解説

11:1のダレイオスの元年は、今まさに捕囚から解放され、約束の地への帰還が始まろうとしている時でした。しかし、彼らを待ち受けていたのは完全な自由ではありません。依然としてペルシアの支配下にあり、やがて北の国と南の国の狭間に置かれて、その争いに巻き込まれていきます。その中で現れる「一人の卑劣な者」(アンティオコス四世エピファネス)は、神殿を汚し、敬虔な者たちを迫害します。しかし、その苦難は無意味ではありません。神の民はその中で「錬られ、清められ、白くされる」のです。

12章では、視点がさらに終末へと移ります。「かつてなかったほどの苦難の時」が訪れます。しかしその中で、旧約聖書中最も明確な復活の希望が語られます。「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。」神の救いは、捕囚からの帰還や政治的解放にとどまらず、死そのものに対する勝利へと至るのです。

川の上に立つ亜麻布の衣を着た人は、受肉前のキリストを指しているのかもしれません(10:5-6、黙示録1:12-16参照)。歴史の流れの上に立たれるその方に、ダニエルは「いつまででしょうか」と尋ねます。しかし示されたのは詳細な年表ではなく、忍耐と希望への招きでした。終わりの日まで主に忠実に歩むことです。

そして最後にダニエルはこう告げられます。

「あなたは終わりまで行け。あなたは休み、終わりの日に、自分の受ける分に立つ。」

歴史の主は、苦難の中を歩む神の民に、復活と永遠のいのちの希望を約束しておられるのです。

<クイズ>12:12で忍耐の期間として告げられるのは?1.1260日 2.1290日 3.1235日