日々の御言葉

聖イエス会福音教会の牧師室から聖書のみ言葉をおおくりします。聖書は主に新改訳2017を使用しています。

日々の御言葉 4月12日

日々のみ言葉 4月12日

○今日のタイトル いのちは血の中に

○通読箇所 レビ17-18章

◇今日の聖句

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。

◇ひとくち解説

レビ記の心臓部「大贖罪の日」についての章に続き、17章では、いけにえの血の意味が明らかにされます。血はいのちであり、捧げられたいのちのゆえに、民は罪による死からまぬがれるのです。その血(いのち)は、民が自分で獲得したものではなく「これをあなたがたに与えた」(17:11)と主は言われます。主が、民のために贖いの代価として血を与えられるのです。(マルコ10:45)

18-22章は、聖への招きです。生活の様々の点において、神に属する民としてふさわしく歩むよう招かれます。その初めに主は言われます。「あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは主である。」この「生きる」とは、神との交わりの喜びを楽しむことです。「行う」とは、聖へと招かれる神の恵みに応えて、それにふさわしく歩むことを意味します。ルカ福音書10章ではこの聖句を念頭に、律法の専門家が「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに尋ねます。永遠のいのちは、人の努力や行いによって獲得できるものと誤解していたのです。恵みによる招きがあってはじめて、人はいのちの道を歩むことができます。ヨハネ福音書15章でイエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と招かれた上で、弟子たちに命じられます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」愛したからいのちにとどまることができるのではなく、招きにこたえてイエスのいのちにとどまることで愛することができるのです。

◇クイズ

今日はお休み

日々の御言葉 4月11日

日々のみ言葉 4月11日

○今日のタイトル 第七の月の十日

○通読箇所 レビ15-16章

◇今日の聖句

これは年に一度イスラエルの子らのために行われる、彼らのすべての罪を除く宥めである。

◇ひとくち解説

11-15章にはきよいものと汚れているものとを分ける諸規定が示されました。11章=食物規定 12章=出産規定 13-14章=ツァラアトの規定 15章=性的漏出の規定…これらはすべて「いのち」に関することがらです。「いのち」は神に属することであり、神に連なる民は日常生活においても、注意深く自らを「死」から遠ざけ、分けることが求められたのです。それを受けて、16章では年に一度の「大贖罪の日」について記されています。意図して犯した罪は、その都度きよめの儀式が行われますが、知らずに犯した罪も含めて、その年のすべての罪から民を清める儀式です。出エジプト記30:10で「最も聖なるもの」と端的に表現されたこの儀式は、レビ記の中心に置かれ、いわば心臓部です。

新約聖書ヘブル人への手紙の著者は、この「大贖罪の日」の儀式が、来るべきメシアによる贖いの模型であったと指摘します。キリストは大祭司として来られ「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル9:12)その血は、「死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者に」するのに十分な力があります。(同14節)こうして「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(同10:10)これがレビ記が指し示す希望なのです。

◇クイズ

16章で、民の罪を負って荒野に追放されるやぎは何と呼ばれましたか?1.アザゼル 2.アブネル 3.イゼベル

日々の御言葉 4月10日

日々のみ言葉 4月10日

○今日のタイトル ツァラアト

○通読箇所 レビ13-14章

◇今日の聖句

祭司はその患部をきよいと宣言する。彼はきよい。

◇ひとくち解説

11-15章のきよいものと汚れているものとを分ける諸規定の中ほど、13-14章に「ツァラアト」に関する決まりがあります。ツァラアトがどの病のことを指しているのかは明らかではありません。ツァラアトは人間だけではなく、衣服や家の壁にも現れますので、病気だけを表すのでもなさそうです。細菌やウィルスなどの病原体などについて全く知見のなかった古代においては、病気を治療する手段はほとんどなく、表面に現れて広がっていくのを見守るしかありませんでした。古代の人にとっては病気は克服できるものではなく「死の始まり」であったのです。

そもそもこれら全ての規定は、神とそれ以外のものを「分ける」ことを民に意識させるためのものでした。神は「いのち」であり、いのちの対極にあるのは「死」です。いのちと死を区別するために、祭司は病気を「きよい」「汚れている」と宣言し、分けたのです。それは「いのち」を、神に属するものとして際立たせ、民に意識させるためでした。祭司は分けるだけで治療することはありません。

そのような背景を知ってマタイ福音書8:1-4を読むと、イエスツァラアトをきよめられた奇跡がいかに驚くべきことであったかが、よく分かります。イエスは、いのちと死を分ける隔てを乗り越え、死に触れていのちへと変えることのできるお方です。きよいものと汚れているものを分けるだけでなく、すべてをきよくする権威をもっておられます。なぜなら、イエスがいのちの根源だからです。「この方にはいのちがあった。」(ヨハネ1:4)

◇クイズ

14:4の清めの儀式で使われる3点の道具は、緋色の撚り糸とヒソプと何?1.オリーブの枝 2.杉の枝 3.アーモンドの枝

日々の御言葉 4月9日

日々のみ言葉 4月9日

○今日のタイトル 身を聖別して

○通読箇所 レビ11-12章

◇今日の聖句

あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。

◇ひとくち解説

10:10で「汚れたものときよいものとを分け、…彼らに教える」という祭司の使命が、アロンに告げられました。(主がアロンに直接語られるのは本書ではここだけです)

それを受けて11〜15章では、様々なことを「分ける」規定が記されます。

11章は食物に関する規定です。様々な動物が区別されます。主はすべての動物を創造された時「それを良しと見られ」ました。ここで「汚れたもの」とされた動物たちは「食べてはいけない」だけで、邪悪なものという意味ではありません。なぜ食べてはいけないのかはよく分かっていません。死と関連するもの、衛生上リスクを有するもの、偶像礼拝と結びつくもの、なじみのないものへの警戒…など様々考えられます。理由は分かりませんが、目的は明確です。それはイスラエルの民が、自分たちを主の所有として、区別する意識を持つためです。

11:44で、本書中初めて、神は御名によって自己宣言をなされます。「わたしは主」と。そして、ご自分が一切の被造物から区別された「聖」であると言われます。自分の身を聖別することは、神しか持ち得ない聖性を、神と共有するということなのです。聖なる者となることは、ご自分に似た者にしたいという愛に満ちた主の招きなのです。食物規定は十字架の贖いによって廃止されましたが、ペテロはこの招きを、イスラエルだけにとどまらず、キリストの救いを体験したすべての者への招きとして引用し勧めます。「あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。」(1ペテロ1:15-16)

◇クイズ

使徒の働き」10章で、ペテロが清くない動物の幻を見たのは何時ごろ? 1.午前9時 2.正午ごろ 3.午後3時

日々の御言葉 4月8日

日々のみ言葉 4月8日

○今日のタイトル 主の栄光が

○通読箇所 レビ9-10章

◇今日の聖句

わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。

◇ひとくち解説

8章では、祭司たちの任職の儀式が執り行われました。7日間の清めの後、8日目が最初の職務執行となります。ここにも7日間の天地創造のモティーフがあります。主がアダムを、エデンの園で奉仕しそれを守らせるために置かれたように、アロンもまた主の臨在のもとで奉仕し、その祝福を守るために幕屋に置かれるのです。9-10章は、すべてその八日目に起こった出来事です。

「主の栄光があなたがたに現れる。」(4,6節)と繰り返されているように、アロンが執行する礼拝の目的は、主の臨在が民のただ中にあるようにすることでした。祭司が民を祝福したとき、「主の栄光が民全体に現れ、火が主の前から出て来て」祭壇の上のささげ物を焼き尽くしました。「民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した」のです。ここに民としての礼拝が確立されました。

その喜びの最中に、実に悲しむべきことが起こります。アロンの4人の子のうちナダブとアビフが、主から出た火を、自分の火皿にとったのです。もしかしたら喜びのあまり、この貴重な火でさらに祝福を受けたいという敬虔からしたのかもしれません。しかしそこには、主の火を人間のコントロールの下に置こうとする傲慢がありました。そのことのゆえに、火はこの二人の息子を焼き尽くしてしまったのです。祭司が主の栄光を支配し、利用するのではありません。主が、ご自分が聖であることを示すため、栄光を現すために、祭司をお用いになるのです。

◇クイズ

生き残ったアロンの子のうち兄はだれ?(10:6) 1.エルアザル 2.イタマル 3.ピネハス

日々の御言葉 4月5日

日々のみ言葉 4月5日

○今日のタイトル 罪のきよめのささげ物

○通読箇所 レビ3-4章

◇今日の聖句

こうして祭司は彼らのために宥めを行う。そして彼らは赦される。

◇ひとくち解説

5種類のささげ物のうち、3章では「交わりのいけにえ」、4章では「罪のきよめのささげ物」について記されています。そもそも、なぜ神は、このようなささげ物の規定を設けられたのでしょうか?それは、私たちと共にいたいと願い、私たちをご自身の臨在の中に住まわせたいと望まれるからです。

既にイスラエルは金の子牛の事件で神を裏切って罪を犯し、荒野に捨てられて当然でした。そのイスラエルに、もう一度御自分との交わりの道を設けるために「ささげ物」という手段を用意してくださったのです。つまり、これらの規定は、神が民を罰するためのものではなく、神が民と共に住まうためのあわれみなのです。

「罪の清めのささげ物」では、いけにえの血が、垂れ幕にふりまかれ、香の祭壇の角に塗られ、ささげ物の祭壇の土台に流されました。その血(いのち)の代償のゆえに、神は民の罪を赦し、ご自分の清さの中に招いてくださるのです。

これは、やがて人類の罪のために流されるメシアの血を予告しています。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9:22)「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:7)「私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、…私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。」(黙示録1:5-6)

◇クイズ

3:16によると、「交わりのいけにえ」では最も貴重な部分が焼いて煙にされました。それはどこ? 1.頭部 2.脂肪 3.筋肉

日々の御言葉 4月4日

日々のみ言葉 4月4日

○今日のタイトル 全焼のささげ物

○通読箇所 レビ1-2章

◇今日の聖句

そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。

◇ひとくち解説

レビ記1〜7章は、ささげ物についての教えです。ささげ物には5つの種類があり、そのうち1章では全焼のささげ物、2章では穀物のささげ物について書かれています。

「ささげ物」を表す語は、「近づく」という動詞に起源があります。神と人間との関係を表現するしるしです。

すべてのささげ物に共通するのは、余った不要なものを神に捧げるのではなく、自分にとってとっておきの、貴重なものを差し出すということです。それは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして主を愛することの表現です。全焼のささげ物は、5つのささげ物の中でも、何も残さずすべてを焼きつくすため、もっとも犠牲の度合いが高い方法でした。かつてアブラハムは、愛する独り子イサクを「全焼のささげ物」として捧げよという主のみことばに従い、そのことが神との不変の契約の証となりました。

後に、預言者を通して主は指摘されました「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア6:6)

パウロは勧めます。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

ささげ物の規定を読むときには、主が今、自分に何を求めておられるのかを思いめぐらしたいものです。

◇クイズ

2:2で、小麦粉と共に祭壇に捧げられたのは、油と何? 1.ぶどう酒 2.蜂蜜 3.乳香